Marc Anthony

2014/09/23

独占記事!マークアンソニー、シャノン・デ・リマと結婚へ。

想像より早いスピードでやってきました。マークアンソニーがベネズエラのモデル、シャノン・デ・リマと結婚するというスクープ記事が出ました。

ひとまずニュースを最初に報じたHola.comの記事を一部コメント入れつつ訳出します。

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c) Getty Images


「結婚しよう!」マークアンソニーとシャノン・デ・リマは来月にも結婚する。歌手のカルロス・ビベスは「うん結婚式に招待されているよ。もちろん参加するよ。マークは長年のいい友人だからね。彼はとっても喜んでいるし僕らも嬉しく思っているよ。」とHola TVに語った。(訳注:カルロス・ビベスはコロンビア人歌手)

Hola TVはHolaグループとアトレスメディアの合弁テレビチャンネルで、9月18日ワシントンで開催されたヒスパニック・ヘリテージ賞の会場で独占的にこの情報を得た。レジェンド賞を受け取る前にカルロス・ビベスはマークアンソニーの結婚についてHola TVに対し快く語った。

マークとシャノンは2012年の初めに付き合っていたが、2013年の1月に別れたと報告。「いい時間を過ごしていたけれど、うまくいかなかった」とマークの事務所は当時コメントを出している。その後トップショップのご令嬢クロエ・グリーンと付き合うも、今年の初めに別れている。

マークとシャノンが再び一緒にいるところが見られるようになったのは今年の3月から。もう一度チャレンジしてみようということだろう。(マークの誕生日の9月16日)火曜日にマークはシャノンと誕生日を祝っていた。(訳注:9月14から19までマークはコンサートの予定を入れていなかった)

シャノンは自身のインスタグラムに「心から愛してるわ」と綴り、同じ日マークは写真つきで「サプライズがあるよ、心の準備をしておいて!」とファンに向けたメッセージをアップ。写真はシャノンとの結婚、あるいはシャノンが次のプロモビデオに登場することをほのめかすものだった。


マークが自身の誕生日にアップした写真

46歳になったマークは3年前のジェニファーロペスとの離婚のあと、シャノンの隣で安定した場所をみつけたようだ。7年間続いた結婚生活で得た双子マックスとエメがいる。離別にもかかわらずジェニファーとはいい関係を保っているようで子どものために一緒にいる姿が目撃されることもよくある。今回の結婚はジェニファーとキャスパー・スマートの別れともマッチしている。

Hola TVは昨年始まったスペイン語有料放送。社会ニュース、ファッション、ライフスタイル情報などを配信、ラテンアメリカと米国で視聴されている。

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このニュースがフェイスブックのファンサイトにアップされると、ファンたちはそれぞれにコメントを残していました。けっこう面白いので、いくつかここで紹介します。

"Marc noooooooooooooo no cometary ese suicidio con esa mujer ella lo que quiere es tu $$$$$$$"

「マーク、ダメーーーーー 自殺行為だわ、彼女がほしいのはあなたの$$$$$$$だけよ」

"Marc again! Wow! Wish you well!"
「マークまたか!ワオ!お幸せに!!」

"Aunque no me gusta la. Infirmacion esperi esta union di dure.. por q si no allu viy yi mu marc a hacette feliz de verdad"

「嬉しくはないけれど、マークが幸せであれば尊重するわ」

"Oh brother, again! She ain't nothing but a gold digger..... wake up for crying out loud, hire about be with your kids! Love your kids!”

「オー、ブラザー、またかい!彼女はただお金を掘ってくだけだよ。。。目が覚めて大泣きするよ。子どもたちといてあげてくれよ。きみの子どもたち大好きなんだ」

"No te case..."

「結婚しないで・・・・」

"I ALWAYS WANTED FOR U AND JENNIFER LOPEZ TO GET TOGHTHER AGAIN BUT IS YOUR LIFE I WISH YOU HAPPINESS. BUT IN MY HEART YOU AND J.L SOME DAY BE A COUPLE THERE IS LOVE BETWEEN U BOTH N TWO BEAUTIFUL CHILDRED. I LOVE YOU NO MATTER WHAT. MANY BLESSINGS N GOD BLESS YOUR HEART."

「わたしはあなたがジェニファーとまた一緒になってくれることをいつも願っていたのよ。でもあなたの人生だから、幸せを祈るわ。でもわたしの心のなかではあなたとジェニファーと二人の美しい子どもたちとが一緒になることを夢見てる。何はどうあれ大好きよ。あなたのこころにたくさんのお恵みがありますように。」

シャノンとよりを戻して半年後に婚約。幸せになってくれること、そして引き続き歌手活動をアクティブに続けてくれることだけを祈ります!!


情報元:Exclusiva en Hola TV: Marc Anhony y Shannon de Lima se casan 



2014/09/19

マークアンソニーの恋の行方

クイズです、マークアンソニーの彼女は誰でしょう?

つい最近まで22才の「トップショップ」のご令嬢クロエ・グリーンと付き合っていたと思ったら、どうやら今年の1月末に別れていたみたい。理由はスケジュール多忙とか言われているけど・・・。クロエのお父さんはフィリップ・グリーン卿。「トップショップ」や「ミス・セルフリッジ」などの人気ファッション・チェーンを統括するアルカディア・グループの総帥。




で、最近ネットにあがったのがこの写真。


ベネズエラ人のモデル、シャノン・デ・リマのインスタグラムに投稿された写真。

Happy Bday mi amor bello!!!! Que Dios te bendiga hoy y siempre!!!!! Te amo con todo mi corazon
ハッピーバースディ、愛する美しい人!!!今日もいつも神のご加護がありますように!!!愛してる

マークと26歳のシャノンは以前1年ほど付き合っていたが、2013年1月に「友好的に」別れていた。で、今年3月によりを戻したらしい。。。

シャノンさん、プライベートなことも全部インスタグラムに載せちゃうらしく、3月15日付けで水着姿の2人のラブショットが投稿されているし、他にもかなりプライベートな写真がちらほら載っている様子。1ヶ月前にはマークの慈善団体マエストロケアの孤児院建設中のコロンビアにシャノンも同行していたみたい。

デイリーメール社のネット記事によると、シャノンの左手薬指には大きなダイヤのリングが光っているから、もしかすると婚約しているかも、とも。マーク、結婚するのはいいけど、引きつづきコンサートお願いします!!!

シャノンには前の彼との間に6歳の息子がいて、マークには子ども4人。

マークの動向はシャノンのインスタグラムでチェックするのが手早いかも。

参考:DailyMail.co.uk


2014/09/17

コールズ、のぞいて来ましたよ

先日ご紹介した衣料品店KOHL'S(コールズ)限定のマークアンソニーブランド。

実際の店舗をのぞいてきました~。店内入ってすぐの目立つところにありましたよー。


マーク、今日で46才♪

米国時間の今日9月16日はマークの誕生日。



Feliz Cumple!!! (お誕生日おめでとう!)

9月16日生まれということは乙女座ですね。



セルヒオくん5才の夢叶う ~マークアンソニーに会えた日~

こんにちは~。マークアンソニー情報を集めつつ訳してるMayです。

今日は少し個人的な内容でもありますが、わたしの大学のクラスメイトだったフェルナンド(写真右)と彼の甥っ子のセルヒオくん(5才)が、大好きなマークアンソニーに会えた話をお伝えします!


マークと写真撮影するセルヒオくんとフェルナンド


フェルナンドとはフェイスブックで繋がっているのですが、ある日彼が投稿した写真が以下。



マークアンソニーへ:

ぼくはサンディエゴのセルヒオ・オチョアです。
あなたのナンバーワンのファンです。

9月5日の(LA)コンサートで一緒に歌いたいです。

ぼくの夢をかなえてください!!


フェルナンドが添えたメッセージにはこのようにありました。

"フェイスブックの友だちみんな、マークアンソニーに届くように
このメッセージを共有してください。

9月5日のコンサートに行く予定で
セルジオはマークと一緒に歌いたいと切に願ってます。
共有お願いします!!"




その後の投稿には
セルヒオくんがVivir Mi Vidaを歌っているビデオが
投稿されました。

(残念ながらビデオがうまく共有できないのですが、とっても上手に歌っていました。
5才なのにスペイン語ですらすら歌えてうらやましい限り!!)


フェルナンド叔父さんはセルヒオくんの願いを叶えるべく
マークアンソニーのフェイスブックページなどにこのビデオを投稿

「ご協力お願いします。
マークに会いたい子どもの夢を叶えてあげてください」
とコメントを書き込んだ。



ファンの人たちも反応して、マークにお願いメッセージ。

「マーク、この子の夢を叶えてやってくれよ。
家族が必死になって呼びかけてるんだ。
すごく意味のあることだって思うから、お願いだよ」



そして9月5日当日・・・


セルヒオくんはマークになりきり、準備万端!LA Liveの会場へ。


マークのバナーの前で写真撮影するセルヒオくん


フェルナンドとセルヒオくんが向かったのは
マークアンソニーが設立したNPO団体Maestro Cares財団のブース。




募金した人のなかから抽選でマークに会えるという企画が。


セルヒオくんの夢を叶えるべく
たくさん募金するフェルナンド叔父さん!

涙ぐましいです。


ブースに飾ってあったマークのサイン入りベース★




そして・・・


やりました~!!

マークに会える人の1人に選ばれたセルヒオくん!!
フェルナンドおじさんも喜びひとしお!!


マークに会えるバッジを見事ゲット!!


フェルナンドのフェイスブックでのコメント

「この夢を叶えてくれたみんなに感謝してます!
”願えば叶う”を証明できました」




         

セルヒオくんに負けずうれしそうなフェルナンド叔父さん。
よかったね!!!



マークアンソニーは自身が創設したマエストロ・ケア財団の活動の一環で
コンサート会場で募金した人のなかから抽選で
マークと舞台裏で会うという企画を実施中。



2014/09/13

マークアンソニーのインスタグラム

フェイスブックやらツイッターやら、いろいろありますが。

マークアンソニーのインスタグラムのぞいてみたら面白い写真がありましたよ。

いくつかご紹介・・・




「オバマ大統領と会いました」 (2週間前)




(5週間前)

マークはiPhoneユーザーみたいですね。
こうやってわたしたちの書き込みを見てくれているのかな?





「Cambio de Pielツアー開始まであと一日。信じられる?」 (2週間前)




(2週間前)





(昨日)





是非のぞいてみて下さい♪ 

けっこうハマっちゃいます。

現在28万人のファンがフォローしてます。すごいですね!







2014/09/10

2012 Viña del Mar コンサート映像

ビニャ・デル・マール(Vina del Mar)はチリ中央部にある海沿いの街。ここで毎年ビニャ・デル・マル音楽祭が開催されています。

マークアンソニーが2012年のビニャ・デル・マール音楽祭でコンサートをしたときの映像。ごゆっくりお楽しみください!


MTVサイトで見れるマークアンソニーの動画&フォト

MTVのウェブサイト、見たことありますか?




マークアンソニーのページはこちらから!なかなかいい写真やビデオが揃っています。YouTubeとはまた違ったコレクションが見れますよ。

2014年1月26日、ロサンゼルス・ステープルセンターでの56回グラミー賞
受賞式のレッドカーペットで。
c) Getty Images

c) MTV.com


2014/09/09

バドワイザーがラテン音楽に倍賭け

今日掲載のビルボード.comの記事をご紹介します!ビールブランド「バドワイザー・ライト(=バドライト)」がマークアンソニーのスポンサーとなり、今後タイアップしていくというニュース。

確かに今思えば、8月29日のCambio de Pielツアー初日inサンディエゴにも、このバナーが置いてあって写真を一緒に撮ったのでした。Bud Light(バドライト)って書いてあるなぁって思ったのを覚えています。




この記事を読んだらFlor Palidaのプロモーションビデオもチェックしたくなる?あるいはビール飲みたくなる!?というわけで、以下記事の訳文です!


2月8日、ドミニカ共和国 ラ・ロマーナのカサ・デ・カンポで撮影されたマークアンソニー。
仕立てJami Harper、スタイリングBen Goglia、衣裳提供KOHLS
写真 Douglas Friedman   c) Billboard.com


マークアンソニーのビールといえば冷たいバドワイザー・ライト(以下略してバドライト)だということは彼と時間を過ごした人なら誰でも知っている。控え室のクーラーに準備されているのがバドライトだ。だからこのビールブランドが13都市15公演のスポンサーとなったことはしっくりくる。このツアーは8月29日にサンディエゴで始まり、10月11日にボストンで終わる。

マークアンソニーとのタイアップはバドワイザーブランドをもつアンハイザー・ブッシュ社の新しい活力あふれる戦略の一環。音楽を使って全国的・地域的にヒスパニック人口に訴えていく戦略だ。

バドライトとマークアンソニーの契約は大手企業とスーパースターが手を取り、汎ラテンマーケットに訴えていくもので、過去のピットブルやヴィセンテ・フェルナンデスとの契約と同じ類のもの。

地域的な活動を経由して国全体をターゲットにしていくとういうのが同社の戦略だろう。

「アーティストたちはニューヨーク、マイアミなどの一定の人口に特化して訴求していけるだろう」と同社に新たにできたポジション「地域多文化マーケティング副社長」のライアン・ガルシアは語る。僕のチームはヒスパニックの顧客や地域のマーケティングに特化した新たな組織です。ヒスパニックはバドライトの売り上げの19%を占めており、比例してお金を落としてくれると考えています。」

例えば、アンソニーとバドライトの契約はCMN(カルデナス・マーケティング・ネットワーク)により総合的に結び付けられたものだ。このシカゴを拠点とするマーケティング会社はアンソニーのコンサートのブッキングも行う。この契約は2015年の初めまで延長されており、コンサートシーン入りのバドライトのテレビスポットCMやニューシングルFlor Palidaのミュージックビデオに製品が映ることなども含まれる。

またmeet-and-greet(訳注:コンサートの舞台裏で本人に会える)や、アルバートソンやクロガーなどの地元スーパー、セブンイレブンなどのコンビニでのプロモーション、製品露出やカスタマー・エクスペリエンスなどの地域的なマーケティング活動も含まれる。

「マークは本当にバドライトを飲むんだ-飛行機の中、バックステージ、ドミニカ共和国の自宅でも。そして彼はツアースポンサーシップの本当の意味を分かる数少ないアーティストです」CMNのイベントマーケティングとビジネスディベロップメント部門の副社長エレナ・ソトマヨールは話す。これこれが多層のおけるパートナーシップの鍵となる。

「巨大なTVスポットCMやキャンペーンなどはしません。その代わりに客層と一緒になって、客層にも参加してもらえるようにしているんです。」

顧客とつながって行動に移してもらうというのがアンハイザー・ブッシュ社の戦略だ。

「音楽という視点から地域的なインパクトを拡大していこうとしているんです。ニューヨークで情報発信力のあるアーティスト、マイアミで顧客に語りかけるアーティスト、特定の客層に訴求するアーティストを起用するんです。」

例えば今月、同社は新たなMontejoブランドのビールを発売した際、ノルテーニョ音楽のアイコン的存在であるLos Tigres del Nolteをスポンサーとして起用、ラジオスポットCMや新しいミュージックビデオで製品を露出するなどのマーケティングを実施している。

「アンハイザー・ブッシュ社は音楽とアーティストを初めから一体となってキャンペーンを張っている」と語るのはユニバーサル・ミュージック・ラテン・エンタテインメント(UMLE)のジェネラル・マネージャーのグスタボ・ロペス。彼はTigresと交渉し2015年のキャンペーンなどを実施している。「偶発的なアーティストではなくて、さまざまなジャンルのさまざまなアーティストとパートナーシップを組むんです。」

この記事は当初、ビルボード誌9月13日号に掲載されたものです。

元記事:Budweiser Double Down on Latin Music


マークアンソニーとフアン・ルイス・ゲラ Gigantesツアー

マークアンソニーとフアン・ルイス・ゲラが今年秋から冬にかけて南米アルゼンチン、ペルー、チリ、エクアドルを回る。Gigantesツアーは10月中旬開始。

c) Pollstar.com

これ以上大きなコンサートはないだろう。マークアンソニーは世界で1200万枚以上を売り上げてグラミー賞やラテングラミー賞、24のLo Nuestro賞を複数受賞した経歴を持つ。

c) Pollstar.com


ゲラの経歴も負けずに輝かしい。2000万枚のアルバムを売り上げ、3つのグラミー賞、15ラテングラミー賞を受賞している。

二人のスターは10月15日にペルーで始まる。ほとんどの日程は10月に予定されているが、12月にコスタリカでも開催される予定。日程は以下の通り。

10月15日 ペルー・リマ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)
10月17日 エクアドル・グアヤキル エスパナード公園
10月19日 チリ・サンチアゴ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)
10月21日 チリ・サンチアゴ モビスター・アリーナ
10月26日 アルゼンチン・ブエノスアイレス ヒポドロモ・デ・ラ・プラタ
12月4日   コスタリカ・サンホゼ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)

チケットはすでに発売中。詳しくはこちらから。 

元記事:Marc Anthony, Juan Luis Guerra on Gigantes   Pollstar.com



Gigantesツアーに関連して、コスタリカ主要紙La Nacionオンラインの記事を紹介する。(以下訳)


フアン・ルイス・ゲラとマークアンソニーのコンサートの前売りチケットは、9月8日月曜日の1時半に発売開始とOne Productionsのトップ、フアン・カルロス・カンポスがコメントした。コンサートは12月4日にエスタディオ・ナシオナルにて開催される。

アメリカンエクスプレスの顧客向けの前売りは今日9月8日に始まり、9月10日まで。クレドマティック(カード会社)会員向けの販売は、11日木曜日から16日火曜日まで。一般販売は17日水曜日から。

マークアンソニーはフアン・ルイス・ゲラとともに12月4日にコンサートを開催する
c) Nacion.com


9月3日の記事で、5日からチケット販売開始と誤って報じていた。前売りチケットの価格は14,500~117,000コスタリカ・コロン。サービス料は別途5,000~8,000コロン。

それぞれの価格は、踊り席14,000コロン(前売り)、19,000(一般)、手数料は5,000コロン。南グランド・スタンドは18,000コロン(前売り)、23,000(一般)、手数料5,000コロン。指定席は20,500コロン(前売り)、26,000コロン(一般)、手数料5,500コロン。指定優遇席は25,500(前売り)、32,000(一般)、手数料は6,500コロン。指定バルコニー席:27,500(前売り)、35,000(一般)、手数料7,500。指定優遇バルコニー席30,500(前売り)、39,000(一般)、手数料8,500。指定オーケストラ席:36,000(前売り)、42.500(一般)、手数料6,500。指定優遇オーケストラ席:39,000(前売り)、45.500(一般)、手数料6,500。特等席49,000(前売り)、55,500(一般)、手数料6,500。VIP席:78,000(前売り)、85,500(一般)、手数料7,500。クレドマティック117,500(前売り)、125,000(一般)、手数料7,500コロン。

訳注) 1コロンは約0.2円。

販売元はwww.eticket.cr、代表電話番号は2295-9400、サンホゼ・クリダバのSpeedBoxおよび38箇所にて販売。主催者は3万人の観客を期待している。


元記事:Preventa de Entradas para Concierto de Marc Anthony y Juan Luis Guerra Empezara este Lunes   Nacion.com

マークアンソニーらサルサスターたちが語る、伝説のファニアレコードの思い出

最近のマークアンソニー関連ニュースを探してみるものの、飛び込んでくるのはジェニファーロペスのインタビュー記事ばかり。ジェニファーは初となる自著"True Love"の発売を11月に控えており、その宣伝を兼ねたインタビューでマークアンソニーとの破局についても語っている・・・。

そんな中マークアンソニーの名が見出しについたビルボードの記事「独占記事:マークアンソニーらサルサスターたちが語る 伝説のファニアレコードの思い出」を発見。サルサの歴史的音楽レーベル「ファニア・レコード」についてマークアンソニーらサルサスターたちが語る、というもの。

ファニアレコードとは一世を風靡したトロピカル音楽レーベルで、セリア・クルーズ、エクトル・ラボーなどの大御所が所属、サルサ音楽の象徴的存在。詳細はウィキペディアの記事(日本語)にもあります。

かなり長めの骨のある記事ですが、サルサの歴史に触れるスケールの大きな記事なので頑張って訳出してみました。「マークアンソニーのファニアレコードへのラブレター」は最終部分に掲載されています。お急ぎの方はこちらへどうぞ。(でもサルサ好きの方は全文読んでくださると嬉しいです!)



セリア・クルーズが歌う(1980年頃)
c) David Corio/ Michael Ochs Archives/ Getty Images


口述の歴史、伝説のサルサスターたちが語る - よいことも、悪いことも - 史上最強のトロピカル音楽レーベル。

1960年頃ジョニー・パチェコはキューバのラテン音楽にハマっていた。ドミニカ生まれニューヨーク育ちのパチェコは、名門ジュリアード音楽大学で鍛えられたマルチな楽器を操る演奏家。彼のグループPacheco y Su Charangaとして成功していた。

パチェコはジェリー・マスッチと出会うことになる。ジェリーは警官から弁護士に転身したニューヨークのラテン音楽の熱烈的なファンだった。パチェコが1962年に離婚したとき、彼は離婚処理をマスッチに依頼した。夫婦の離別を進める一方、二人は1つの音楽レーベルの立ち上げを進めていた。それが「ファニアレコード」である。

二人は5,000ドルを投資し、手始めにスパニッシュハーレムで車のトランクにCDを展示販売した。そのレーベルがまもなく一つのジャンルとして展開されていくことになる。伝統的なキューバのソンと、アメリカのジャズとファンクが汎ラテンのリズムが合わさったものとして生まれたのがサルサだ。

70年代はファニアの全盛期だった。レーベルに所属するトップ歌手たちが一つになり「ファニア・オール・スターズ」として活躍した。1973年にはヤンキーズ・スタジアム初のラテンイベントとして5万人の観客を集めた。音楽以外にもファニアは、アカデミー賞を受賞したレオン・ガストが監督したドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」を1972年にリリースし、ニューヨークの街をラテンの多様な文化に染めた。

新しい才能たちもファニアを通じて世界の舞台に羽ばたいていった。ブルックリン出身のユダヤ人ピアニストのラリー・ハーロウや、トロンボーン奏者でバンドリーダーのウィリー・コロン。ウィリーは17歳でデビューアルバムEl Maloをリリース、バリオのタフな生活の記録を綴った。マークアンソニーとジェニファーロペスが映画エル・カンタンテで演じたエクトル・ラボー、ファニアの郵便室からスターにのしあがったルベン・ブラデスはサルサの社会的地位を押し上げた。ファニアレコードが成長するにしたがって、ラテン・モータウンとして知られるようになり、セリア・クルーズやビロードの声の持ち主チェオ・フェリシアーノなどのスターたちが集うようになった。

80年代初頭、ファニアが静かに生産を終えたとき、1000枚のアルバム、3000曲の作曲、そしておよそ1万のマスタートラックを生み出していた。共同創設者マスーチは1997年に63歳で亡くなった。2005年にファニアはイームシカ・エンタテインメント・グループに1千万ドル(約10億円)で売られ、その後2009年にニューヨークの投資会社シグナル・イクイティに売られた。

ファニアが50周年記念を迎えるにあたり、レーベルに所属した伝説のスターたちは、トロピカル音楽の全方向に反響し続けている。ウィリー・コロンやルベン・ブラデス、79歳になるパチェコを含むファニア・スターたちは今でも現役で、後継のトップアーティストたちにも影響を与え続けている。

「世界中で知られているいわゆるサルサ音楽というのはファニアレコードの貢献なくして今日存在しなかっただろう」とセルヒオ・ジョージは語る。セルヒオはマークアンソニーやジェニファーロペスなどのプロデュースはじめ、2009年にはプリンス・ロイス、ルイス・エンリケ、レスリー・グレースによるアルバムを出したトップ・ストップ・ミュージックというレーベルを設立者だ。「今日この日まで、彼らのサウンドはサルサ音楽がどうあるべきかを体現してきた。伝承するのは容易ではない。」


エクトル・ラボー 1979
c) Billboard



19631968

「ほうき部屋から始まった」

ファニアレコードはパチェコとマスッチが2500ドルずつ投資して始まった。レーベル最初のアルバムはパチェコの「ファニア・フンチェ」で、レイナルド・ボラノスによる古いキューバの曲が含まれていた。

ジョニー・パチェコ:ジェリーと僕は大金を持ってなかったんだ。だから「レコード作ってみて売れるかどうかやってみようよ」って提案したんだ。「ファニアという名前はアルバムに入っているキューバの古い曲「ファニア・フンチェ」から来ているんだ。「ファニア」という言葉はキャッチーだったよ。「ファニア・レコード」、響きがいい。

アレックス・マスッチ(ジェリー・マスッチの弟でファニアレコードの元副社長):僕が13歳のときだったと覚えているよ。ジェリーがレーベルを立ち上げるためにお金を借りて母が小切手を書いていたんだ。大金だったよ、だって母は工場で労働搾取されていた身だし、父はハーツトラックのメカニックだったんだ。ブルックリンに住んでいて、こんな小さなアパート見たことないってくらいに狭いアパートに住んでたんだ。ジョニー・パチェコがディナーに来たときのことを覚えてるよ。僕らが外に座っていたら、ベンツが家の前に停まったんだ。それまでベンツを見たことなくて。それから彼の奥さんが車の外から出てきた。彼女はこの世のものではないみたいだったよ。とってもゴージャスだった。それから彼らはレコード作りについて話し始めたんだ。

ジョニー・パチェコ:売り出してすぐ爆発的な人気になったんだ。アルバムの売上でできたお金はすべて会社に使ったよ。僕らは歌うミュージシャンだった、そしてラリー・ハーロウが1966年で最初だった。それからボビー・バレンティンやウィリー・コロンが加わった。

アレックス・マスッチ:この会社はブロードウェイ305番地にあったジェリーの法律事務所のほうき部屋から始まったんだ。電車に乗って店まで届けていたんだ。最初のショーはピアニストのラリー・ハーロウ、ユダヤ人だよ。考えてみてよ、いったい誰がユダヤ人のラテンバンドリーダーなんかと契約するっていうの?それからウィリー(・コロン)だって契約時まだ15歳だったんだよ。

ウィリー・コロン:僕は自分のバンドを持ってたんだ。アルバムを録って・・・でもレコーディングスタジオはテープを禁止していたんだ。レコーディングエンジニアのアーブ・グリーンバウムは言ったよ「ジェリー・マスッチに聞かせたいんだけどいいかな?」僕は高卒の母をビジネスの代理人として連れて行ったよ。そして500ドルで契約したんだ。

ボビー・バレンティン(ミュージシャン・サルサバンドリーダー):以前パチェコの編曲者として働いていたんだ。それで(1965年に)自分のバンドを作ったときにファニアと契約したいって言ったんだ。オーディションを受けないといけないと言われてブロンクスの138番街にバンド全員で演奏したんだよ。当時ファニアはとってもアグレッシブなレーベルだったんだよ。

ウィリー・コロン:パチェコは僕のプロデューサーで「ボーカルを変えるべきだ。エクトル・ラボーを使うべきだ」って言ったんだ。これは素晴らしいコンビだった。完璧にニューヨークだった。ぼくはほとんどスペイン語が話せない、そしてヘクトルは英語がまるっきしゼロ。ヘクトルはプエルトリコ系のレパートリーを全部やってた。すごく面白いやつだったんだ。僕はパロディみたいな皮肉みたいな歌を書いていたよ。当時とっても新鮮なことをやっていたんだ。今ラッパーがやっているようなことをやっていたんだからね。


19681974

「収容人数は800人。ぼくらは2000人近く押し込んだ」

1968
年、パチェコはレーベルのトップアーティストのスーパーグループを結成する考えを思いついた。「ファニア・オール・スターズ」だ。その後ライブアルバムと、コンサートのドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」がリリースされた。この成功で拍車をかけジェリー・マスッチは28万ドル(約2800万円)でヤンキース・スタジアムを貸しきった。1973823日の夜、世界最強のラテンミュージシャンたちをみようと5万人近くの観客が押し寄せた。予定されていたドキュメンタリーとライブアルバムはプエルトリコのサンファンで翌年完成した。

イッズィー・サナブリア(ラテンNYマガジンの発行人でファニアのアルバムデザイナー、MC):若い、英語を話すラティーノたちによってニューヨークでは文化が進化を遂げていました。プエルトリコ人のベビーブーマーたちは、50年代にニューヨークに大移民してきた人たちの息子や娘だったんです。ティト・プエンテは50年代のキューバ音楽を完璧に現代化させて、キューバのソンをニューヨークのエネルギーとジャズの影響で全く新しい形に持っていきました。それから大胆不敵なファニア・オール・スターズが出てきた。金管楽器の音を響かせて、ワイルドでクレイジーでした。

ジョニー・パチェコ:(ファニア・オール・スターズは)1971年にマンハッタンのブロードウェイと53番街にあるチーターという店でコンサートをしたんだ。それがその後の道のりを示した。あのコンサートを収録できたのはとっても幸運だった。チーターの収容人数は800人くらいだったんだけど、2000人近く押し込んだんだ。

アレックス・マスッチ:この音楽がサルサって呼ばれるようになったことについては、100%イッズィーの業績だよ。イッズィーは2万人の観客の前に立って「サルサーーーー!!!」って叫んだんだ。そしたら観客の半分が「サル」って叫んで、残りが「サー!」って叫んだ。1972年に「Our Latin Thing」を作って、南アメリカやヨーロッパで上映したんだ。

イッズィー・サナブリア:「Our Latin Thing」がリリースされたとたん、僕はファニア行事の公式マスターになって世界中を彼らと回ったんです。

アレックス・マスッチ:チーターからヤンキース・スタジアムまでの道のりは輝かしいものだったよ。僕は兄に言った「もし誰も来なかったらどうするんだ?」ってでも観客は続々と現れたんだ。僕らは球場のセキュリティのために5万ドルを投じたけど暴動状態だったね。僕はステージの上にいてバンドに演奏を辞めさせようとしたんだ。だって観客が応援席を乗り越えてフィールドに降りてきていたからね。

ジョニー・パチェコ:ヤンキース・コンサートでの演奏はやまなかったよ。レイ・バレットとモンゴ・サンタマリアの「コンゴ・ボンゴ」を演奏したとき、コンガを叩きはじめた途端、人々は多いに盛り上がった。観客席に背を向けていたんだけど、振り返って「こりゃ大変なことになるぞ!」って叫んだ。そしたらトロンボーンを持って走ってる男がいて、誰かがトロンボーンを盗もうとしていると思ったら、実はそいつはウィリー・コロンだった。僕らはステージにあるもの全てをつかんで、マイクをつかんでいたよ。



レイ・バレット 1970年代中盤
c) Billboard


19741987

「馬鹿でかいパーティだったんだ」

ブームはその後も続き、1974年にはモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦を囲んで、アフリカのザイールで8万人以上を集めてコンサートをした。キューバ生まれのスーパースター、セリア・クルーズやルベン・ブラデスやピアニストのエディー・パルミエリの政治色の強いアルバムの歌などがコンサートを飾った。しかし1984年に不利な契約への不満が表面化し、ブラデスは未払いの印税の件で訴訟を起こした。レーベルはまもなくレコーディングをやめることとなる。


ジョン・ファウツィー(ファニアのレコーディングエンジニア、1972-1985):一時期ファニアからものすごい量の仕事を頼まれるようになった。13セッションくらいこなして、朝9時から朝方3時くらいまで働いたよ。みんながそれぞれのことをライブの仕事で知っていて。スタジオに行くとドラッグだらけだったよ。馬鹿でかいパーティだったんだ。


ルベン・ブラデス1974年にファニアのアーティストたちは2曲をリリースしていてすごく人気があったんだ。だから僕はファニアにソングライターが必要かって聞いたら、答えはノーだった。「何か仕事はないか?」って聞いたら、郵便室で郵便仕分けの仕事があると言われた。ある日レイ・バレットが彼のバンドのオーディションがあるが興味ないかと聞いてきた。僕の最初のショーはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、19千人くらい集まった。

イッズィー・サナブリア:ニューヨークの音楽は育っていなかったんです。摩天楼にいながらキューバ音楽をまねっこしていたし、キューバの田舎について語っていました。ルベン・ブラデスが現れるまではね。

ルベン・ブラデス:契約をしないといけなかった。レイ・バレットのバンドなのにもかかわらずね。僕はソリストとしてサインしないといけなかった。飛行機のチケットを買って契約書を眺めるようなものだったよ。気に入らなくとも飛行機に乗らなかったらどこにも行けやしなかったからね。

アレックス・マスッチ:あの契約書は普通の契約書だったよ。

ルベン・ブラデス:僕はジェリーに一言言いたい。彼は音楽を愛していたし、才能を見出して反映するために何が出来るかということにとても鋭かった。でもミュージシャンへの経済的な配慮は失礼にあたるものだった。誰かが亡くなるたびに帽子を回して寄付を募るような状況だったんだ。それはひどかった。

ボビー・バレンティン:僕はとくに問題なかったよ。確かに彼らはレーベルのオーナーだったけど家族みたいだったんだ。僕らみんながミュージシャンの。そして僕らはみんな自分のスタイル、自分のアイデンティティ、自分の楽器があった。みんな同じだったんじゃないかな。
ルベン・ブラデス:僕の音楽は都会的なものだった。僕はウィリー・コロンと仕事をこなすことだけを考えていた。ウィリーとは年が近いだけじゃなくて、パン・アメリカニズムを共有する仲だったんだ。僕は言っていたんだ「僕はパナマから来た。ラテンアメリカは広い。僕はラテンアメリカの人々の問題を解決してやるぞ」って。

ウィリー・コロン:(ルベン・ブラデスと僕の作品)シエンブラは1978年のいいタイミングで生まれた。ラテンアメリカでは当時、政治的なことがいろいろ起こっていた。シエンブラはただのレコードじゃなかった。ただのサルサじゃなかった。ムーブメントになったんだ。プロダクションと一緒になってあれこれやったよ。ファニアはサポートしてくれた。このプロジェクトを立ち上げるためにお金が必要だった。だけど誰もお金も信念も勇気もなんて持ってなかった。

ジョニー・パチェコ:僕は僕の始めたキャリアに誇りを持っている。自分がやったことを誇りに思っているんだ。信じられないグループを作り上げたって思ってる。もうあれから50年だけど、僕らは今でも家族みたいなもんだ。 



2006年の映画「エル・カンタンテ」のマークアンソニー
c) Picturehouse Entertainment/ Everett Collection



マークアンソニーのファニア・レコードへのラブレター

ファニアはニューヨークで育った僕の人生のサウンドトラックの一つです。それは文化的な象徴という意味だけではなくて、芸術的な重要性という意味でもです。ジャンルを問わずアートに興味を持っている人にとって、これは宝箱を開けるようなもの。これから飛び込んでいく音楽の世界。映画エル・カンタンテで(ファニアのアーティストである)エクトル・ラボーを演じたことは、僕にとって大きなチャレンジでした。役者としてだけではなく、歌手としても・・・彼の声、彼のタイミングは類まれなものだったんです。

もし僕が彼の音楽を紹介したとしたら、人としての彼についても知りたくなる。もし僕が彼のすごいエピソードについて語るとしたら、彼の音楽を聴いてみたいと思う。そしてもし、彼の人となりも音楽も知りたいと思ってもらえるならば、彼のストーリーが語られるべきだと思う。僕らの時代の代表する音楽の背景にあるストーリーだから、ということではなくて。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュのほうがエクトル・ラボーの音楽より大切だなんて言える人はいないんじゃないかな。芸術的に同じくらい重要。だから彼が亡くなってから20年経ったあとも、彼の音楽に影響を受けたというレゲトン歌手(reggaetoneros)や若いサルセロたちが生まれてくるんです。例えばダディー・ヤンキーが最大の後悔はエクトル・ラボーと競演できなかったことですって語る。世代は抜きにして大事なことなんです。エクトルや他のファニアのアーティストたちは未だにパイオニアで僕ら世代のアーティストが花開くのに大きく責任を負っているアーティストたちなんです。

この記事は当初、ビルボード830日号に掲載されました。