最近のマークアンソニー関連ニュースを探してみるものの、飛び込んでくるのはジェニファーロペスのインタビュー記事ばかり。ジェニファーは初となる自著"True
Love"の発売を11月に控えており、その宣伝を兼ねたインタビューでマークアンソニーとの破局についても語っている・・・。
そんな中マークアンソニーの名が見出しについたビルボードの記事「独占記事:マークアンソニーらサルサスターたちが語る 伝説のファニアレコードの思い出」を発見。サルサの歴史的音楽レーベル「ファニア・レコード」についてマークアンソニーらサルサスターたちが語る、というもの。
ファニアレコードとは一世を風靡したトロピカル音楽レーベルで、セリア・クルーズ、エクトル・ラボーなどの大御所が所属、サルサ音楽の象徴的存在。詳細はウィキペディアの記事(日本語)にもあります。
かなり長めの骨のある記事ですが、サルサの歴史に触れるスケールの大きな記事なので頑張って訳出してみました。「マークアンソニーのファニアレコードへのラブレター」は最終部分に掲載されています。お急ぎの方はこちらへどうぞ。(でもサルサ好きの方は全文読んでくださると嬉しいです!)
セリア・クルーズが歌う(1980年頃)
c) David Corio/ Michael Ochs Archives/ Getty Images
口述の歴史、伝説のサルサスターたちが語る - よいことも、悪いことも - 史上最強のトロピカル音楽レーベル。
1960年頃ジョニー・パチェコはキューバのラテン音楽にハマっていた。ドミニカ生まれニューヨーク育ちのパチェコは、名門ジュリアード音楽大学で鍛えられたマルチな楽器を操る演奏家。彼のグループPacheco y Su Charangaとして成功していた。
パチェコはジェリー・マスッチと出会うことになる。ジェリーは警官から弁護士に転身したニューヨークのラテン音楽の熱烈的なファンだった。パチェコが1962年に離婚したとき、彼は離婚処理をマスッチに依頼した。夫婦の離別を進める一方、二人は1つの音楽レーベルの立ち上げを進めていた。それが「ファニアレコード」である。
二人は5,000ドルを投資し、手始めにスパニッシュハーレムで車のトランクにCDを展示販売した。そのレーベルがまもなく一つのジャンルとして展開されていくことになる。伝統的なキューバのソンと、アメリカのジャズとファンクが汎ラテンのリズムが合わさったものとして生まれたのがサルサだ。
70年代はファニアの全盛期だった。レーベルに所属するトップ歌手たちが一つになり「ファニア・オール・スターズ」として活躍した。1973年にはヤンキーズ・スタジアム初のラテンイベントとして5万人の観客を集めた。音楽以外にもファニアは、アカデミー賞を受賞したレオン・ガストが監督したドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」を1972年にリリースし、ニューヨークの街をラテンの多様な文化に染めた。
新しい才能たちもファニアを通じて世界の舞台に羽ばたいていった。ブルックリン出身のユダヤ人ピアニストのラリー・ハーロウや、トロンボーン奏者でバンドリーダーのウィリー・コロン。ウィリーは17歳でデビューアルバムEl Maloをリリース、バリオのタフな生活の記録を綴った。マークアンソニーとジェニファーロペスが映画エル・カンタンテで演じたエクトル・ラボー、ファニアの郵便室からスターにのしあがったルベン・ブラデスはサルサの社会的地位を押し上げた。ファニアレコードが成長するにしたがって、ラテン・モータウンとして知られるようになり、セリア・クルーズやビロードの声の持ち主チェオ・フェリシアーノなどのスターたちが集うようになった。
80年代初頭、ファニアが静かに生産を終えたとき、1000枚のアルバム、3000曲の作曲、そしておよそ1万のマスタートラックを生み出していた。共同創設者マスーチは1997年に63歳で亡くなった。2005年にファニアはイームシカ・エンタテインメント・グループに1千万ドル(約10億円)で売られ、その後2009年にニューヨークの投資会社シグナル・イクイティに売られた。
ファニアが50周年記念を迎えるにあたり、レーベルに所属した伝説のスターたちは、トロピカル音楽の全方向に反響し続けている。ウィリー・コロンやルベン・ブラデス、79歳になるパチェコを含むファニア・スターたちは今でも現役で、後継のトップアーティストたちにも影響を与え続けている。
「世界中で知られているいわゆる”サルサ音楽”というのはファニアレコードの貢献なくして今日存在しなかっただろう」とセルヒオ・ジョージは語る。セルヒオはマークアンソニーやジェニファーロペスなどのプロデュースはじめ、2009年にはプリンス・ロイス、ルイス・エンリケ、レスリー・グレースによるアルバムを出したトップ・ストップ・ミュージックというレーベルを設立者だ。「今日この日まで、彼らのサウンドはサルサ音楽がどうあるべきかを体現してきた。伝承するのは容易ではない。」
エクトル・ラボー 1979年
c) Billboard
1963~1968
「ほうき部屋から始まった」
ファニアレコードはパチェコとマスッチが2500ドルずつ投資して始まった。レーベル最初のアルバムはパチェコの「ファニア・フンチェ」で、レイナルド・ボラノスによる古いキューバの曲が含まれていた。
ジョニー・パチェコ:ジェリーと僕は大金を持ってなかったんだ。だから「レコード作ってみて売れるかどうかやってみようよ」って提案したんだ。「ファニアという名前はアルバムに入っているキューバの古い曲「ファニア・フンチェ」から来ているんだ。「ファニア」という言葉はキャッチーだったよ。「ファニア・レコード」、響きがいい。
アレックス・マスッチ(ジェリー・マスッチの弟でファニアレコードの元副社長):僕が13歳のときだったと覚えているよ。ジェリーがレーベルを立ち上げるためにお金を借りて母が小切手を書いていたんだ。大金だったよ、だって母は工場で労働搾取されていた身だし、父はハーツトラックのメカニックだったんだ。ブルックリンに住んでいて、こんな小さなアパート見たことないってくらいに狭いアパートに住んでたんだ。ジョニー・パチェコがディナーに来たときのことを覚えてるよ。僕らが外に座っていたら、ベンツが家の前に停まったんだ。それまでベンツを見たことなくて。それから彼の奥さんが車の外から出てきた。彼女はこの世のものではないみたいだったよ。とってもゴージャスだった。それから彼らはレコード作りについて話し始めたんだ。
ジョニー・パチェコ:売り出してすぐ爆発的な人気になったんだ。アルバムの売上でできたお金はすべて会社に使ったよ。僕らは歌うミュージシャンだった、そしてラリー・ハーロウが1966年で最初だった。それからボビー・バレンティンやウィリー・コロンが加わった。
アレックス・マスッチ:この会社はブロードウェイ305番地にあったジェリーの法律事務所のほうき部屋から始まったんだ。電車に乗って店まで届けていたんだ。最初のショーはピアニストのラリー・ハーロウ、ユダヤ人だよ。考えてみてよ、いったい誰がユダヤ人のラテンバンドリーダーなんかと契約するっていうの?それからウィリー(・コロン)だって契約時まだ15歳だったんだよ。
ウィリー・コロン:僕は自分のバンドを持ってたんだ。アルバムを録って・・・でもレコーディングスタジオはテープを禁止していたんだ。レコーディングエンジニアのアーブ・グリーンバウムは言ったよ「ジェリー・マスッチに聞かせたいんだけどいいかな?」僕は高卒の母をビジネスの代理人として連れて行ったよ。そして500ドルで契約したんだ。
ボビー・バレンティン(ミュージシャン・サルサバンドリーダー):以前パチェコの編曲者として働いていたんだ。それで(1965年に)自分のバンドを作ったときにファニアと契約したいって言ったんだ。オーディションを受けないといけないと言われてブロンクスの138番街にバンド全員で演奏したんだよ。当時ファニアはとってもアグレッシブなレーベルだったんだよ。
ウィリー・コロン:パチェコは僕のプロデューサーで「ボーカルを変えるべきだ。エクトル・ラボーを使うべきだ」って言ったんだ。これは素晴らしいコンビだった。完璧にニューヨークだった。ぼくはほとんどスペイン語が話せない、そしてヘクトルは英語がまるっきしゼロ。ヘクトルはプエルトリコ系のレパートリーを全部やってた。すごく面白いやつだったんだ。僕はパロディみたいな皮肉みたいな歌を書いていたよ。当時とっても新鮮なことをやっていたんだ。今ラッパーがやっているようなことをやっていたんだからね。
1968~1974
「収容人数は800人。ぼくらは2000人近く押し込んだ」
1968年、パチェコはレーベルのトップアーティストのスーパーグループを結成する考えを思いついた。「ファニア・オール・スターズ」だ。その後ライブアルバムと、コンサートのドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」がリリースされた。この成功で拍車をかけジェリー・マスッチは28万ドル(約2800万円)でヤンキース・スタジアムを貸しきった。1973年8月23日の夜、世界最強のラテンミュージシャンたちをみようと5万人近くの観客が押し寄せた。予定されていたドキュメンタリーとライブアルバムはプエルトリコのサンファンで翌年完成した。
イッズィー・サナブリア(ラテンNYマガジンの発行人でファニアのアルバムデザイナー、MC):若い、英語を話すラティーノたちによってニューヨークでは文化が進化を遂げていました。プエルトリコ人のベビーブーマーたちは、50年代にニューヨークに大移民してきた人たちの息子や娘だったんです。ティト・プエンテは50年代のキューバ音楽を完璧に現代化させて、キューバのソンをニューヨークのエネルギーとジャズの影響で全く新しい形に持っていきました。それから大胆不敵なファニア・オール・スターズが出てきた。金管楽器の音を響かせて、ワイルドでクレイジーでした。
ジョニー・パチェコ:(ファニア・オール・スターズは)1971年にマンハッタンのブロードウェイと53番街にあるチーターという店でコンサートをしたんだ。それがその後の道のりを示した。あのコンサートを収録できたのはとっても幸運だった。チーターの収容人数は800人くらいだったんだけど、2000人近く押し込んだんだ。
アレックス・マスッチ:この音楽がサルサって呼ばれるようになったことについては、100%イッズィーの業績だよ。イッズィーは2万人の観客の前に立って「サルサーーーー!!!」って叫んだんだ。そしたら観客の半分が「サル」って叫んで、残りが「サー!」って叫んだ。1972年に「Our Latin Thing」を作って、南アメリカやヨーロッパで上映したんだ。
イッズィー・サナブリア:「Our Latin Thing」がリリースされたとたん、僕はファニア行事の公式マスターになって世界中を彼らと回ったんです。
アレックス・マスッチ:チーターからヤンキース・スタジアムまでの道のりは輝かしいものだったよ。僕は兄に言った「もし誰も来なかったらどうするんだ?」ってでも観客は続々と現れたんだ。僕らは球場のセキュリティのために5万ドルを投じたけど暴動状態だったね。僕はステージの上にいてバンドに演奏を辞めさせようとしたんだ。だって観客が応援席を乗り越えてフィールドに降りてきていたからね。
ジョニー・パチェコ:ヤンキース・コンサートでの演奏はやまなかったよ。レイ・バレットとモンゴ・サンタマリアの「コンゴ・ボンゴ」を演奏したとき、コンガを叩きはじめた途端、人々は多いに盛り上がった。観客席に背を向けていたんだけど、振り返って「こりゃ大変なことになるぞ!」って叫んだ。そしたらトロンボーンを持って走ってる男がいて、誰かがトロンボーンを盗もうとしていると思ったら、実はそいつはウィリー・コロンだった。僕らはステージにあるもの全てをつかんで、マイクをつかんでいたよ。
レイ・バレット 1970年代中盤
c) Billboard
1974~1987
「馬鹿でかいパーティだったんだ」
ブームはその後も続き、1974年にはモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦を囲んで、アフリカのザイールで8万人以上を集めてコンサートをした。キューバ生まれのスーパースター、セリア・クルーズやルベン・ブラデスやピアニストのエディー・パルミエリの政治色の強いアルバムの歌などがコンサートを飾った。しかし1984年に不利な契約への不満が表面化し、ブラデスは未払いの印税の件で訴訟を起こした。レーベルはまもなくレコーディングをやめることとなる。
ジョン・ファウツィー(ファニアのレコーディングエンジニア、1972-1985):一時期ファニアからものすごい量の仕事を頼まれるようになった。1日3セッションくらいこなして、朝9時から朝方3時くらいまで働いたよ。みんながそれぞれのことをライブの仕事で知っていて。スタジオに行くとドラッグだらけだったよ。馬鹿でかいパーティだったんだ。
ルベン・ブラデス:1974年にファニアのアーティストたちは2曲をリリースしていてすごく人気があったんだ。だから僕はファニアにソングライターが必要かって聞いたら、答えはノーだった。「何か仕事はないか?」って聞いたら、郵便室で郵便仕分けの仕事があると言われた。ある日レイ・バレットが彼のバンドのオーディションがあるが興味ないかと聞いてきた。僕の最初のショーはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、1万9千人くらい集まった。
イッズィー・サナブリア:ニューヨークの音楽は育っていなかったんです。摩天楼にいながらキューバ音楽をまねっこしていたし、キューバの田舎について語っていました。ルベン・ブラデスが現れるまではね。
ルベン・ブラデス:契約をしないといけなかった。レイ・バレットのバンドなのにもかかわらずね。僕はソリストとしてサインしないといけなかった。飛行機のチケットを買って契約書を眺めるようなものだったよ。気に入らなくとも飛行機に乗らなかったらどこにも行けやしなかったからね。
アレックス・マスッチ:あの契約書は普通の契約書だったよ。
ルベン・ブラデス:僕はジェリーに一言言いたい。彼は音楽を愛していたし、才能を見出して反映するために何が出来るかということにとても鋭かった。でもミュージシャンへの経済的な配慮は失礼にあたるものだった。誰かが亡くなるたびに帽子を回して寄付を募るような状況だったんだ。それはひどかった。
ボビー・バレンティン:僕はとくに問題なかったよ。確かに彼らはレーベルのオーナーだったけど家族みたいだったんだ。僕らみんながミュージシャンの。そして僕らはみんな自分のスタイル、自分のアイデンティティ、自分の楽器があった。みんな同じだったんじゃないかな。
ルベン・ブラデス:僕の音楽は都会的なものだった。僕はウィリー・コロンと仕事をこなすことだけを考えていた。ウィリーとは年が近いだけじゃなくて、パン・アメリカニズムを共有する仲だったんだ。僕は言っていたんだ「僕はパナマから来た。ラテンアメリカは広い。僕はラテンアメリカの人々の問題を解決してやるぞ」って。
ウィリー・コロン:(ルベン・ブラデスと僕の作品)シエンブラは1978年のいいタイミングで生まれた。ラテンアメリカでは当時、政治的なことがいろいろ起こっていた。シエンブラはただのレコードじゃなかった。ただのサルサじゃなかった。ムーブメントになったんだ。プロダクションと一緒になってあれこれやったよ。ファニアはサポートしてくれた。このプロジェクトを立ち上げるためにお金が必要だった。だけど誰もお金も信念も勇気もなんて持ってなかった。
ジョニー・パチェコ:僕は僕の始めたキャリアに誇りを持っている。自分がやったことを誇りに思っているんだ。信じられないグループを作り上げたって思ってる。もうあれから50年だけど、僕らは今でも家族みたいなもんだ。
2006年の映画「エル・カンタンテ」のマークアンソニー
c) Picturehouse Entertainment/ Everett Collection
マークアンソニーのファニア・レコードへのラブレター
ファニアはニューヨークで育った僕の人生のサウンドトラックの一つです。それは文化的な象徴という意味だけではなくて、芸術的な重要性という意味でもです。ジャンルを問わずアートに興味を持っている人にとって、これは宝箱を開けるようなもの。これから飛び込んでいく音楽の世界。映画エル・カンタンテで(ファニアのアーティストである)エクトル・ラボーを演じたことは、僕にとって大きなチャレンジでした。役者としてだけではなく、歌手としても・・・彼の声、彼のタイミングは類まれなものだったんです。
もし僕が彼の音楽を紹介したとしたら、人としての彼についても知りたくなる。もし僕が彼のすごいエピソードについて語るとしたら、彼の音楽を聴いてみたいと思う。そしてもし、彼の人となりも音楽も知りたいと思ってもらえるならば、彼のストーリーが語られるべきだと思う。僕らの時代の代表する音楽の背景にあるストーリーだから、ということではなくて。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュのほうがエクトル・ラボーの音楽より大切だなんて言える人はいないんじゃないかな。芸術的に同じくらい重要。だから彼が亡くなってから20年経ったあとも、彼の音楽に影響を受けたというレゲトン歌手(reggaetoneros)や若いサルセロたちが生まれてくるんです。例えばダディー・ヤンキーが最大の後悔はエクトル・ラボーと競演できなかったことですって語る。世代は抜きにして大事なことなんです。エクトルや他のファニアのアーティストたちは未だにパイオニアで僕ら世代のアーティストが花開くのに大きく責任を負っているアーティストたちなんです。
この記事は当初、ビルボード8月30日号に掲載されました。
ダディーヤンキーもエクトルラボーを敬愛していたとは…知りませんでした。
返信削除私もエルカンタンテを観てから、彼の歌を聴くようになりましたが、
当時の映像を見ていると、独特のモノ(彼自身であったり、周りの状況であったり、ファンであったり)
があった気がします。
余談ですが、ペルーの方にエクトルラボーの話をしたら「あのよっぱらったような歌い方ね」って
言われたことがあります…(^-^;