Marc Anthony

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2014/10/25

マーク、1回のコンサートで7000万円稼ぐ

マークアンソニーのニュースをいち早く入手すべく、グーグルアラートというグーグルのサービスを使っています。最近ジェニファーロペスがラスベガスで定期公演することが決まったのをきっかけにマークの記事が少し出てきましたのでご紹介します。

コンサートの稼ぎ、半端ないですね!


「マークアンソニー、ベガスの1日の公演で70万ドル稼ぐ」

マークアンソニーは昨月ラスベガスで開催された1回のコンサートで7000万円を受け取った。彼の元妻ジェニファーロペスが1回で受け取る額の2倍になる。

46歳のシンガーソングライターは9月13日にシンシティ(罪の街)ラスベガスのプラネットハリウッドでのコンサートで100万ドル(約1億円)稼いだと報道されていたが、コンサートの開催費用やプロモーションへの支出を考慮すると30万ドル(約3000万円)少なく稼いでいるとゴシップサイトTMZが伝えた。

この額はジェニファーロペスの稼ぐ額の2倍にあたる。ジェニファーはショーごとに35万ドル(約3500万円)稼ぐ。2人は3年前に別れてから6月に正式に離婚。

マークは高収益ではあるが、ジェニファーが72回の公演の契約を完了した場合、彼女の収入は1~2年の期間で2630万ドル(26.3億円)に達することが予測される。

ジェニファーとマークは大金を稼ぐことに慣れており、2008年3月に双子のマックスとエメが生まれたときに最初に写真撮影をする権利をピープル誌が600万ドル(約6億円)で買い取ったときもそうだった。今双子は6才になる。

2011年の離別から、二人とも次の恋愛を見つけるのには時間がかからなかった。ジェニファーは3度の離婚の末、元バックダンサーのキャスパースマートと2012年の春からデートを重ねたが去る6月に別れている。

マークはモデルのシャノン・デ・リマと1年ほど付き合ったのちに別れ、トップショップのご令嬢クロエ・グリーンとくっついたり離れたりを繰り返しながら1年ほど付き合っていたが多忙なスケジュールを理由に2月に別れを告げている。



元記事:Marc Anthony's $700k Vegas pay day by BramptonGuardian.com

2014/10/11

2015年のビニャ祭にマーク出演予定

今日はチリのニュースからご紹介します。

先日2012年のコンサート動画をご紹介したチリのビニャ・デ・マル音楽祭。来年のビニャ祭にマークアンソニーが出演することが決まったというニュース。

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ビニャ・デ・マルの市長ビルヒニア・レジナトは2015年のビニャ音楽祭に二人のアーティストが追加されることを認めた。

ツイッターを通じて「みなさん、偉大なマークアンソニーが2015年のビニャ・デル・マル祭に出演すします」とアナウンスした。数分後「(アルゼンチンの歌手ガブリエル)ヴィセンティコの参加が確認できたことは喜びです」とツイートした。

これによりキンタ・ベルガラ・エマヌエルやメキシコのアレハンドロ・フェルナンデスに加えアルゼンチンとプエルトリコのアーティストが加わることになる。

マークアンソニーは'Gigant3s"の一員としてチリにまもなく来る予定になっており、そこではフアン・ルイス・ゲラとカルロス・ビベスとステージをともにすることになっている。ヴィセンティコは11月4日コンセプシオンで、7日はモビスターアリーナにてコンサートをする予定。

ビニャ・デ・マル国際音楽祭は来年2月22日から27日まで開催される。

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元記事は下のリンクです。ウェブサイトの.clはチリのことなんですね。

この記事で学んだスペイン語表現

A traves de ~ : ~を通じて
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元記事:Vicentico y Marc Anthony Confirmados a Vina 2015 on Cooperativa.cl







2014/10/04

マーク、結婚の計画を否定。でも・・・

ユニビジョン.comのスペイン語記事Marc Anthony niega tener planes de boda con Shannon de Limaより。niegaの原型はnegar(否定する)ですね。

「マークアンソニー、シャノン・デ・リマとの結婚の計画を否定する」

マークの親しい友人であるカルロス・ビベスの軽はずみな発言で発覚したマークアンソニーがまもなく結婚するという話。ところがマーク本人はミュージックビデオでの結婚シーンは撮影したものの、シャノンとの結婚を急いでいる様子はなさそうだ。

「マークは10月に公開されるPalida de Florのプロモビデオでシャノンとウェディングシーンを撮影した以外は特に結婚を発表していません。」とマークの関係者はスペイン語で語った。

3月に1年ぶりにお付き合いを再開した二人は、カルロスの発言に対して否定している。カルロスは結婚式の計画にとどまらず、カルロス自身が結婚式に参席することも語っている。

カルロスが近しい友人の私生活を明かすのはこれが初めてではない。去年の7月にシャキラの2度目の妊娠を最初に話したのはカルロス。シャキラやシャキラの夫エラルド・ピケが発表するだいぶ前のことだ。「うん、彼女は妊娠していてとても嬉しそうだよ」と当時カルロスは語った。


元記事:univision.com


ギャー、カルロス・ビベス、かなりおしゃべりですね!でも、ということはマークの結婚はやっぱり本当なのかもしれない!?


2014/10/03

マークの意外な交友関係

マークの意外なお友だちって?今年6月、ワールドカップの頃の過去記事より。



一人はフィラデルフィア出身、もう一人はニューヨーク市。でもウィル・スミスとマークアンソニーは(ワールドカップのコロンビア)対ウルグアイ戦で瞬時にコロンビアファンになった。

二人のスーパースターはコロンビアのあるホテルで市民たちがワールドカップの勝利を祝っているところを見て楽しんでいた。誰かがコロンビアチームのシャツを渡したところ大はしゃぎ。

マークアンソニーはツアー中で各国を訪れており、スペシャルゲストとしてウィル・スミスを連れてきていた。


その時の動画は以下↓↓  最初ちょっとぐらぐらしていますが・・。





ちなみにマークがコンサートはイバゲ(Ibague)で6月27日(日)、ネイバ(Neiva)が翌28日(月)、コロンビアvsウルグアイ戦があったのが28日の午後5時(ブラジル時間)。コンサートツアーの合間も楽しんでますねー。



2014/10/02

マーク、お金持ちだから・・・

度々のゴシック記事でごめんなさい。でもこれ、けっこう面白ショッキング。前回のダラヤナ・トレスとの養育費裁判に関連した今年5月の過去記事です。


c) TMZ.com


マークアンソニーは農場を購入・・・そして忘れていた!!

ダラヤナ・トレスとの養育費をめぐる裁判で証言するため、金曜日(訳注:おそらく4月30日)裁判所にいたマークアンソニー。ダラヤナはマークが収入を隠していると主張し、養育費を当初の13,000ドルから113,000ドルへ引き上げを要求した。

彼の財産についての証言のなかで、ニューヨーク州北部に所有する農場について言及しなかったことを追及されたところ、彼の回答は至ってシンプル「自分が農場を所有してたことを完璧に忘れてました」

どうして忘れていたかについてマークは、「もう7-8年行っていないから」。

マークはその農場はおそらく700,000ドル(7000万円)の価値があると述べた。

マークは法的文書の中で一ヶ月に125万ドル(約1億2500万円)稼いでいるとしているが、実際の手取りがどのくらいあるのかはよく分からないとしている。

お金持ち特有の問題である。


記事元:I'm so rich... I forgot I had a farm! TMZ.com

月額268万円、養育費支払い命令

今年1月の記事より。元妻ダラヤナ・トレスとの裁判バトルの幕が下りました。お金持ちも楽じゃないですね・・・。

裁判長はアンソニーに月額26,800ドル(約268万円)を養育費として支払うことを命じた。二人の間にはクリスチャンとライアンの2人の息子がいる。

c) Michael Tran/ FilmMagic; David Livingstone/ Getty


マークはこれまで月額13,400ドル(約134万円)を支払っていた。2013年11月にダラヤナは子どもの養育費やライフスタイルの変化に伴い、この額を123,426ドル(約1,234万円)へ引き上げ要求。この10倍要求のなかには7000ドル分の子守や家事の費用も含まれていた。

裁判所の資料によると、アンソニーのリーガルチームは28,000ドルを支払うことを提案し、裁判長は26800ドルと判断した。また旅費として年間30,000ドルを提案し、裁判長は12,000ドルと判断。

また当初養育費は子どもたちが21歳になるまでの養育費と大学の学費をマークが支払うようになっていたが、今回の裁判でカリフォルニアの法律に従い、子どもが18歳になるまでの養育費を支払うことで決着がついた。

元ミスユニバースのダラヤナは現在39歳で、2000年から2004年にマークと婚姻関係にあった。二人の離婚が成立した1週間後、マークはジェニファーロペスと結婚。2011年の7月に離別を発表、2012年にマークが離婚届を提出。


元記事:Marc Anthony Ordered to Pay Ex-Wife Darayana Torres $26,800 per Month in Child Support on US Weekly Online



2014/09/09

バドワイザーがラテン音楽に倍賭け

今日掲載のビルボード.comの記事をご紹介します!ビールブランド「バドワイザー・ライト(=バドライト)」がマークアンソニーのスポンサーとなり、今後タイアップしていくというニュース。

確かに今思えば、8月29日のCambio de Pielツアー初日inサンディエゴにも、このバナーが置いてあって写真を一緒に撮ったのでした。Bud Light(バドライト)って書いてあるなぁって思ったのを覚えています。




この記事を読んだらFlor Palidaのプロモーションビデオもチェックしたくなる?あるいはビール飲みたくなる!?というわけで、以下記事の訳文です!


2月8日、ドミニカ共和国 ラ・ロマーナのカサ・デ・カンポで撮影されたマークアンソニー。
仕立てJami Harper、スタイリングBen Goglia、衣裳提供KOHLS
写真 Douglas Friedman   c) Billboard.com


マークアンソニーのビールといえば冷たいバドワイザー・ライト(以下略してバドライト)だということは彼と時間を過ごした人なら誰でも知っている。控え室のクーラーに準備されているのがバドライトだ。だからこのビールブランドが13都市15公演のスポンサーとなったことはしっくりくる。このツアーは8月29日にサンディエゴで始まり、10月11日にボストンで終わる。

マークアンソニーとのタイアップはバドワイザーブランドをもつアンハイザー・ブッシュ社の新しい活力あふれる戦略の一環。音楽を使って全国的・地域的にヒスパニック人口に訴えていく戦略だ。

バドライトとマークアンソニーの契約は大手企業とスーパースターが手を取り、汎ラテンマーケットに訴えていくもので、過去のピットブルやヴィセンテ・フェルナンデスとの契約と同じ類のもの。

地域的な活動を経由して国全体をターゲットにしていくとういうのが同社の戦略だろう。

「アーティストたちはニューヨーク、マイアミなどの一定の人口に特化して訴求していけるだろう」と同社に新たにできたポジション「地域多文化マーケティング副社長」のライアン・ガルシアは語る。僕のチームはヒスパニックの顧客や地域のマーケティングに特化した新たな組織です。ヒスパニックはバドライトの売り上げの19%を占めており、比例してお金を落としてくれると考えています。」

例えば、アンソニーとバドライトの契約はCMN(カルデナス・マーケティング・ネットワーク)により総合的に結び付けられたものだ。このシカゴを拠点とするマーケティング会社はアンソニーのコンサートのブッキングも行う。この契約は2015年の初めまで延長されており、コンサートシーン入りのバドライトのテレビスポットCMやニューシングルFlor Palidaのミュージックビデオに製品が映ることなども含まれる。

またmeet-and-greet(訳注:コンサートの舞台裏で本人に会える)や、アルバートソンやクロガーなどの地元スーパー、セブンイレブンなどのコンビニでのプロモーション、製品露出やカスタマー・エクスペリエンスなどの地域的なマーケティング活動も含まれる。

「マークは本当にバドライトを飲むんだ-飛行機の中、バックステージ、ドミニカ共和国の自宅でも。そして彼はツアースポンサーシップの本当の意味を分かる数少ないアーティストです」CMNのイベントマーケティングとビジネスディベロップメント部門の副社長エレナ・ソトマヨールは話す。これこれが多層のおけるパートナーシップの鍵となる。

「巨大なTVスポットCMやキャンペーンなどはしません。その代わりに客層と一緒になって、客層にも参加してもらえるようにしているんです。」

顧客とつながって行動に移してもらうというのがアンハイザー・ブッシュ社の戦略だ。

「音楽という視点から地域的なインパクトを拡大していこうとしているんです。ニューヨークで情報発信力のあるアーティスト、マイアミで顧客に語りかけるアーティスト、特定の客層に訴求するアーティストを起用するんです。」

例えば今月、同社は新たなMontejoブランドのビールを発売した際、ノルテーニョ音楽のアイコン的存在であるLos Tigres del Nolteをスポンサーとして起用、ラジオスポットCMや新しいミュージックビデオで製品を露出するなどのマーケティングを実施している。

「アンハイザー・ブッシュ社は音楽とアーティストを初めから一体となってキャンペーンを張っている」と語るのはユニバーサル・ミュージック・ラテン・エンタテインメント(UMLE)のジェネラル・マネージャーのグスタボ・ロペス。彼はTigresと交渉し2015年のキャンペーンなどを実施している。「偶発的なアーティストではなくて、さまざまなジャンルのさまざまなアーティストとパートナーシップを組むんです。」

この記事は当初、ビルボード誌9月13日号に掲載されたものです。

元記事:Budweiser Double Down on Latin Music


マークアンソニーとフアン・ルイス・ゲラ Gigantesツアー

マークアンソニーとフアン・ルイス・ゲラが今年秋から冬にかけて南米アルゼンチン、ペルー、チリ、エクアドルを回る。Gigantesツアーは10月中旬開始。

c) Pollstar.com

これ以上大きなコンサートはないだろう。マークアンソニーは世界で1200万枚以上を売り上げてグラミー賞やラテングラミー賞、24のLo Nuestro賞を複数受賞した経歴を持つ。

c) Pollstar.com


ゲラの経歴も負けずに輝かしい。2000万枚のアルバムを売り上げ、3つのグラミー賞、15ラテングラミー賞を受賞している。

二人のスターは10月15日にペルーで始まる。ほとんどの日程は10月に予定されているが、12月にコスタリカでも開催される予定。日程は以下の通り。

10月15日 ペルー・リマ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)
10月17日 エクアドル・グアヤキル エスパナード公園
10月19日 チリ・サンチアゴ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)
10月21日 チリ・サンチアゴ モビスター・アリーナ
10月26日 アルゼンチン・ブエノスアイレス ヒポドロモ・デ・ラ・プラタ
12月4日   コスタリカ・サンホゼ 国立劇場(エスタディオ・ナシオナル)

チケットはすでに発売中。詳しくはこちらから。 

元記事:Marc Anthony, Juan Luis Guerra on Gigantes   Pollstar.com



Gigantesツアーに関連して、コスタリカ主要紙La Nacionオンラインの記事を紹介する。(以下訳)


フアン・ルイス・ゲラとマークアンソニーのコンサートの前売りチケットは、9月8日月曜日の1時半に発売開始とOne Productionsのトップ、フアン・カルロス・カンポスがコメントした。コンサートは12月4日にエスタディオ・ナシオナルにて開催される。

アメリカンエクスプレスの顧客向けの前売りは今日9月8日に始まり、9月10日まで。クレドマティック(カード会社)会員向けの販売は、11日木曜日から16日火曜日まで。一般販売は17日水曜日から。

マークアンソニーはフアン・ルイス・ゲラとともに12月4日にコンサートを開催する
c) Nacion.com


9月3日の記事で、5日からチケット販売開始と誤って報じていた。前売りチケットの価格は14,500~117,000コスタリカ・コロン。サービス料は別途5,000~8,000コロン。

それぞれの価格は、踊り席14,000コロン(前売り)、19,000(一般)、手数料は5,000コロン。南グランド・スタンドは18,000コロン(前売り)、23,000(一般)、手数料5,000コロン。指定席は20,500コロン(前売り)、26,000コロン(一般)、手数料5,500コロン。指定優遇席は25,500(前売り)、32,000(一般)、手数料は6,500コロン。指定バルコニー席:27,500(前売り)、35,000(一般)、手数料7,500。指定優遇バルコニー席30,500(前売り)、39,000(一般)、手数料8,500。指定オーケストラ席:36,000(前売り)、42.500(一般)、手数料6,500。指定優遇オーケストラ席:39,000(前売り)、45.500(一般)、手数料6,500。特等席49,000(前売り)、55,500(一般)、手数料6,500。VIP席:78,000(前売り)、85,500(一般)、手数料7,500。クレドマティック117,500(前売り)、125,000(一般)、手数料7,500コロン。

訳注) 1コロンは約0.2円。

販売元はwww.eticket.cr、代表電話番号は2295-9400、サンホゼ・クリダバのSpeedBoxおよび38箇所にて販売。主催者は3万人の観客を期待している。


元記事:Preventa de Entradas para Concierto de Marc Anthony y Juan Luis Guerra Empezara este Lunes   Nacion.com

マークアンソニーらサルサスターたちが語る、伝説のファニアレコードの思い出

最近のマークアンソニー関連ニュースを探してみるものの、飛び込んでくるのはジェニファーロペスのインタビュー記事ばかり。ジェニファーは初となる自著"True Love"の発売を11月に控えており、その宣伝を兼ねたインタビューでマークアンソニーとの破局についても語っている・・・。

そんな中マークアンソニーの名が見出しについたビルボードの記事「独占記事:マークアンソニーらサルサスターたちが語る 伝説のファニアレコードの思い出」を発見。サルサの歴史的音楽レーベル「ファニア・レコード」についてマークアンソニーらサルサスターたちが語る、というもの。

ファニアレコードとは一世を風靡したトロピカル音楽レーベルで、セリア・クルーズ、エクトル・ラボーなどの大御所が所属、サルサ音楽の象徴的存在。詳細はウィキペディアの記事(日本語)にもあります。

かなり長めの骨のある記事ですが、サルサの歴史に触れるスケールの大きな記事なので頑張って訳出してみました。「マークアンソニーのファニアレコードへのラブレター」は最終部分に掲載されています。お急ぎの方はこちらへどうぞ。(でもサルサ好きの方は全文読んでくださると嬉しいです!)



セリア・クルーズが歌う(1980年頃)
c) David Corio/ Michael Ochs Archives/ Getty Images


口述の歴史、伝説のサルサスターたちが語る - よいことも、悪いことも - 史上最強のトロピカル音楽レーベル。

1960年頃ジョニー・パチェコはキューバのラテン音楽にハマっていた。ドミニカ生まれニューヨーク育ちのパチェコは、名門ジュリアード音楽大学で鍛えられたマルチな楽器を操る演奏家。彼のグループPacheco y Su Charangaとして成功していた。

パチェコはジェリー・マスッチと出会うことになる。ジェリーは警官から弁護士に転身したニューヨークのラテン音楽の熱烈的なファンだった。パチェコが1962年に離婚したとき、彼は離婚処理をマスッチに依頼した。夫婦の離別を進める一方、二人は1つの音楽レーベルの立ち上げを進めていた。それが「ファニアレコード」である。

二人は5,000ドルを投資し、手始めにスパニッシュハーレムで車のトランクにCDを展示販売した。そのレーベルがまもなく一つのジャンルとして展開されていくことになる。伝統的なキューバのソンと、アメリカのジャズとファンクが汎ラテンのリズムが合わさったものとして生まれたのがサルサだ。

70年代はファニアの全盛期だった。レーベルに所属するトップ歌手たちが一つになり「ファニア・オール・スターズ」として活躍した。1973年にはヤンキーズ・スタジアム初のラテンイベントとして5万人の観客を集めた。音楽以外にもファニアは、アカデミー賞を受賞したレオン・ガストが監督したドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」を1972年にリリースし、ニューヨークの街をラテンの多様な文化に染めた。

新しい才能たちもファニアを通じて世界の舞台に羽ばたいていった。ブルックリン出身のユダヤ人ピアニストのラリー・ハーロウや、トロンボーン奏者でバンドリーダーのウィリー・コロン。ウィリーは17歳でデビューアルバムEl Maloをリリース、バリオのタフな生活の記録を綴った。マークアンソニーとジェニファーロペスが映画エル・カンタンテで演じたエクトル・ラボー、ファニアの郵便室からスターにのしあがったルベン・ブラデスはサルサの社会的地位を押し上げた。ファニアレコードが成長するにしたがって、ラテン・モータウンとして知られるようになり、セリア・クルーズやビロードの声の持ち主チェオ・フェリシアーノなどのスターたちが集うようになった。

80年代初頭、ファニアが静かに生産を終えたとき、1000枚のアルバム、3000曲の作曲、そしておよそ1万のマスタートラックを生み出していた。共同創設者マスーチは1997年に63歳で亡くなった。2005年にファニアはイームシカ・エンタテインメント・グループに1千万ドル(約10億円)で売られ、その後2009年にニューヨークの投資会社シグナル・イクイティに売られた。

ファニアが50周年記念を迎えるにあたり、レーベルに所属した伝説のスターたちは、トロピカル音楽の全方向に反響し続けている。ウィリー・コロンやルベン・ブラデス、79歳になるパチェコを含むファニア・スターたちは今でも現役で、後継のトップアーティストたちにも影響を与え続けている。

「世界中で知られているいわゆるサルサ音楽というのはファニアレコードの貢献なくして今日存在しなかっただろう」とセルヒオ・ジョージは語る。セルヒオはマークアンソニーやジェニファーロペスなどのプロデュースはじめ、2009年にはプリンス・ロイス、ルイス・エンリケ、レスリー・グレースによるアルバムを出したトップ・ストップ・ミュージックというレーベルを設立者だ。「今日この日まで、彼らのサウンドはサルサ音楽がどうあるべきかを体現してきた。伝承するのは容易ではない。」


エクトル・ラボー 1979
c) Billboard



19631968

「ほうき部屋から始まった」

ファニアレコードはパチェコとマスッチが2500ドルずつ投資して始まった。レーベル最初のアルバムはパチェコの「ファニア・フンチェ」で、レイナルド・ボラノスによる古いキューバの曲が含まれていた。

ジョニー・パチェコ:ジェリーと僕は大金を持ってなかったんだ。だから「レコード作ってみて売れるかどうかやってみようよ」って提案したんだ。「ファニアという名前はアルバムに入っているキューバの古い曲「ファニア・フンチェ」から来ているんだ。「ファニア」という言葉はキャッチーだったよ。「ファニア・レコード」、響きがいい。

アレックス・マスッチ(ジェリー・マスッチの弟でファニアレコードの元副社長):僕が13歳のときだったと覚えているよ。ジェリーがレーベルを立ち上げるためにお金を借りて母が小切手を書いていたんだ。大金だったよ、だって母は工場で労働搾取されていた身だし、父はハーツトラックのメカニックだったんだ。ブルックリンに住んでいて、こんな小さなアパート見たことないってくらいに狭いアパートに住んでたんだ。ジョニー・パチェコがディナーに来たときのことを覚えてるよ。僕らが外に座っていたら、ベンツが家の前に停まったんだ。それまでベンツを見たことなくて。それから彼の奥さんが車の外から出てきた。彼女はこの世のものではないみたいだったよ。とってもゴージャスだった。それから彼らはレコード作りについて話し始めたんだ。

ジョニー・パチェコ:売り出してすぐ爆発的な人気になったんだ。アルバムの売上でできたお金はすべて会社に使ったよ。僕らは歌うミュージシャンだった、そしてラリー・ハーロウが1966年で最初だった。それからボビー・バレンティンやウィリー・コロンが加わった。

アレックス・マスッチ:この会社はブロードウェイ305番地にあったジェリーの法律事務所のほうき部屋から始まったんだ。電車に乗って店まで届けていたんだ。最初のショーはピアニストのラリー・ハーロウ、ユダヤ人だよ。考えてみてよ、いったい誰がユダヤ人のラテンバンドリーダーなんかと契約するっていうの?それからウィリー(・コロン)だって契約時まだ15歳だったんだよ。

ウィリー・コロン:僕は自分のバンドを持ってたんだ。アルバムを録って・・・でもレコーディングスタジオはテープを禁止していたんだ。レコーディングエンジニアのアーブ・グリーンバウムは言ったよ「ジェリー・マスッチに聞かせたいんだけどいいかな?」僕は高卒の母をビジネスの代理人として連れて行ったよ。そして500ドルで契約したんだ。

ボビー・バレンティン(ミュージシャン・サルサバンドリーダー):以前パチェコの編曲者として働いていたんだ。それで(1965年に)自分のバンドを作ったときにファニアと契約したいって言ったんだ。オーディションを受けないといけないと言われてブロンクスの138番街にバンド全員で演奏したんだよ。当時ファニアはとってもアグレッシブなレーベルだったんだよ。

ウィリー・コロン:パチェコは僕のプロデューサーで「ボーカルを変えるべきだ。エクトル・ラボーを使うべきだ」って言ったんだ。これは素晴らしいコンビだった。完璧にニューヨークだった。ぼくはほとんどスペイン語が話せない、そしてヘクトルは英語がまるっきしゼロ。ヘクトルはプエルトリコ系のレパートリーを全部やってた。すごく面白いやつだったんだ。僕はパロディみたいな皮肉みたいな歌を書いていたよ。当時とっても新鮮なことをやっていたんだ。今ラッパーがやっているようなことをやっていたんだからね。


19681974

「収容人数は800人。ぼくらは2000人近く押し込んだ」

1968
年、パチェコはレーベルのトップアーティストのスーパーグループを結成する考えを思いついた。「ファニア・オール・スターズ」だ。その後ライブアルバムと、コンサートのドキュメンタリー映画「Our Latin Thing」がリリースされた。この成功で拍車をかけジェリー・マスッチは28万ドル(約2800万円)でヤンキース・スタジアムを貸しきった。1973823日の夜、世界最強のラテンミュージシャンたちをみようと5万人近くの観客が押し寄せた。予定されていたドキュメンタリーとライブアルバムはプエルトリコのサンファンで翌年完成した。

イッズィー・サナブリア(ラテンNYマガジンの発行人でファニアのアルバムデザイナー、MC):若い、英語を話すラティーノたちによってニューヨークでは文化が進化を遂げていました。プエルトリコ人のベビーブーマーたちは、50年代にニューヨークに大移民してきた人たちの息子や娘だったんです。ティト・プエンテは50年代のキューバ音楽を完璧に現代化させて、キューバのソンをニューヨークのエネルギーとジャズの影響で全く新しい形に持っていきました。それから大胆不敵なファニア・オール・スターズが出てきた。金管楽器の音を響かせて、ワイルドでクレイジーでした。

ジョニー・パチェコ:(ファニア・オール・スターズは)1971年にマンハッタンのブロードウェイと53番街にあるチーターという店でコンサートをしたんだ。それがその後の道のりを示した。あのコンサートを収録できたのはとっても幸運だった。チーターの収容人数は800人くらいだったんだけど、2000人近く押し込んだんだ。

アレックス・マスッチ:この音楽がサルサって呼ばれるようになったことについては、100%イッズィーの業績だよ。イッズィーは2万人の観客の前に立って「サルサーーーー!!!」って叫んだんだ。そしたら観客の半分が「サル」って叫んで、残りが「サー!」って叫んだ。1972年に「Our Latin Thing」を作って、南アメリカやヨーロッパで上映したんだ。

イッズィー・サナブリア:「Our Latin Thing」がリリースされたとたん、僕はファニア行事の公式マスターになって世界中を彼らと回ったんです。

アレックス・マスッチ:チーターからヤンキース・スタジアムまでの道のりは輝かしいものだったよ。僕は兄に言った「もし誰も来なかったらどうするんだ?」ってでも観客は続々と現れたんだ。僕らは球場のセキュリティのために5万ドルを投じたけど暴動状態だったね。僕はステージの上にいてバンドに演奏を辞めさせようとしたんだ。だって観客が応援席を乗り越えてフィールドに降りてきていたからね。

ジョニー・パチェコ:ヤンキース・コンサートでの演奏はやまなかったよ。レイ・バレットとモンゴ・サンタマリアの「コンゴ・ボンゴ」を演奏したとき、コンガを叩きはじめた途端、人々は多いに盛り上がった。観客席に背を向けていたんだけど、振り返って「こりゃ大変なことになるぞ!」って叫んだ。そしたらトロンボーンを持って走ってる男がいて、誰かがトロンボーンを盗もうとしていると思ったら、実はそいつはウィリー・コロンだった。僕らはステージにあるもの全てをつかんで、マイクをつかんでいたよ。



レイ・バレット 1970年代中盤
c) Billboard


19741987

「馬鹿でかいパーティだったんだ」

ブームはその後も続き、1974年にはモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦を囲んで、アフリカのザイールで8万人以上を集めてコンサートをした。キューバ生まれのスーパースター、セリア・クルーズやルベン・ブラデスやピアニストのエディー・パルミエリの政治色の強いアルバムの歌などがコンサートを飾った。しかし1984年に不利な契約への不満が表面化し、ブラデスは未払いの印税の件で訴訟を起こした。レーベルはまもなくレコーディングをやめることとなる。


ジョン・ファウツィー(ファニアのレコーディングエンジニア、1972-1985):一時期ファニアからものすごい量の仕事を頼まれるようになった。13セッションくらいこなして、朝9時から朝方3時くらいまで働いたよ。みんながそれぞれのことをライブの仕事で知っていて。スタジオに行くとドラッグだらけだったよ。馬鹿でかいパーティだったんだ。


ルベン・ブラデス1974年にファニアのアーティストたちは2曲をリリースしていてすごく人気があったんだ。だから僕はファニアにソングライターが必要かって聞いたら、答えはノーだった。「何か仕事はないか?」って聞いたら、郵便室で郵便仕分けの仕事があると言われた。ある日レイ・バレットが彼のバンドのオーディションがあるが興味ないかと聞いてきた。僕の最初のショーはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、19千人くらい集まった。

イッズィー・サナブリア:ニューヨークの音楽は育っていなかったんです。摩天楼にいながらキューバ音楽をまねっこしていたし、キューバの田舎について語っていました。ルベン・ブラデスが現れるまではね。

ルベン・ブラデス:契約をしないといけなかった。レイ・バレットのバンドなのにもかかわらずね。僕はソリストとしてサインしないといけなかった。飛行機のチケットを買って契約書を眺めるようなものだったよ。気に入らなくとも飛行機に乗らなかったらどこにも行けやしなかったからね。

アレックス・マスッチ:あの契約書は普通の契約書だったよ。

ルベン・ブラデス:僕はジェリーに一言言いたい。彼は音楽を愛していたし、才能を見出して反映するために何が出来るかということにとても鋭かった。でもミュージシャンへの経済的な配慮は失礼にあたるものだった。誰かが亡くなるたびに帽子を回して寄付を募るような状況だったんだ。それはひどかった。

ボビー・バレンティン:僕はとくに問題なかったよ。確かに彼らはレーベルのオーナーだったけど家族みたいだったんだ。僕らみんながミュージシャンの。そして僕らはみんな自分のスタイル、自分のアイデンティティ、自分の楽器があった。みんな同じだったんじゃないかな。
ルベン・ブラデス:僕の音楽は都会的なものだった。僕はウィリー・コロンと仕事をこなすことだけを考えていた。ウィリーとは年が近いだけじゃなくて、パン・アメリカニズムを共有する仲だったんだ。僕は言っていたんだ「僕はパナマから来た。ラテンアメリカは広い。僕はラテンアメリカの人々の問題を解決してやるぞ」って。

ウィリー・コロン:(ルベン・ブラデスと僕の作品)シエンブラは1978年のいいタイミングで生まれた。ラテンアメリカでは当時、政治的なことがいろいろ起こっていた。シエンブラはただのレコードじゃなかった。ただのサルサじゃなかった。ムーブメントになったんだ。プロダクションと一緒になってあれこれやったよ。ファニアはサポートしてくれた。このプロジェクトを立ち上げるためにお金が必要だった。だけど誰もお金も信念も勇気もなんて持ってなかった。

ジョニー・パチェコ:僕は僕の始めたキャリアに誇りを持っている。自分がやったことを誇りに思っているんだ。信じられないグループを作り上げたって思ってる。もうあれから50年だけど、僕らは今でも家族みたいなもんだ。 



2006年の映画「エル・カンタンテ」のマークアンソニー
c) Picturehouse Entertainment/ Everett Collection



マークアンソニーのファニア・レコードへのラブレター

ファニアはニューヨークで育った僕の人生のサウンドトラックの一つです。それは文化的な象徴という意味だけではなくて、芸術的な重要性という意味でもです。ジャンルを問わずアートに興味を持っている人にとって、これは宝箱を開けるようなもの。これから飛び込んでいく音楽の世界。映画エル・カンタンテで(ファニアのアーティストである)エクトル・ラボーを演じたことは、僕にとって大きなチャレンジでした。役者としてだけではなく、歌手としても・・・彼の声、彼のタイミングは類まれなものだったんです。

もし僕が彼の音楽を紹介したとしたら、人としての彼についても知りたくなる。もし僕が彼のすごいエピソードについて語るとしたら、彼の音楽を聴いてみたいと思う。そしてもし、彼の人となりも音楽も知りたいと思ってもらえるならば、彼のストーリーが語られるべきだと思う。僕らの時代の代表する音楽の背景にあるストーリーだから、ということではなくて。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュのほうがエクトル・ラボーの音楽より大切だなんて言える人はいないんじゃないかな。芸術的に同じくらい重要。だから彼が亡くなってから20年経ったあとも、彼の音楽に影響を受けたというレゲトン歌手(reggaetoneros)や若いサルセロたちが生まれてくるんです。例えばダディー・ヤンキーが最大の後悔はエクトル・ラボーと競演できなかったことですって語る。世代は抜きにして大事なことなんです。エクトルや他のファニアのアーティストたちは未だにパイオニアで僕ら世代のアーティストが花開くのに大きく責任を負っているアーティストたちなんです。

この記事は当初、ビルボード830日号に掲載されました。






2014/09/06

マークとジェニファーの豪邸 inビバリーヒルズ

有名人の豪邸情報を掲載するStarMap.comに2014年6月25日に掲載された記事。(以下訳)


c) StarMap.com


マークアンソニーとジェニファーロペスが結婚していたころに購入したビバリーヒルズの邸宅。別途ルームが7つ、バスルームが14個あったという。以前、ジミー・スチュアートの邸宅があった敷地に2000年に建てられた。豪邸の敷地面積は12,217平方フィート(1,134平方メートル)の広さ。


c) google map


元記事:StarMap.com

「ゴヤフーズ社がマークアンソニーのチャリティーに協力」2014年9月5日

セレブリティのチャリティーに関するウェブサイトLook to the Stars.orgに掲載された記事です。

「ゴヤフーズ社がマークアンソニーのチャリティーに協力」
2014年9月5日


ゴヤフーズは寄付金額1ドル当たり1ポンドの食品をマエストロ・ケアに寄付した
c) Look to the Stars.org

マエストロ・ケア財団の創設者ヘンリー・カルデナスとマークアンソニー。
c) Maestro Cares Foundation

ヒスパニック経営最大の米国食品会社ゴヤフーズが、マークアンソニーのCambio de Piel米国ツアーの10つのコンサートのスポンサーになり、ファンたちが寄付した金額にあたる5万ポンド(2万2千kg)の食品をマエストラ・ケア財団に寄付した。マエストラ・ケア財団はマークアンソニーとヘンリー・カルデナスにより創設されたNPO団体で、ラテンアメリカの孤児や貧しい子どもたちの寄宿舎や教育のための活動を行う。

この寄付によりドミニカ共和国のラ・ロマーナにある孤児院「Orfanato Ninos de Cristo」の200人以上の子どもたちに5000食分以上を提供することができる。この孤児院は2014年にマエストロ・ケア財団により建設され、他にもコロンビアのバランキージャにも現在もう一棟建設中。9月4日から10月11日までファンたちはマエストロ・ケア財団ウェブサイトを通じて寄付ができ、フェイスブックやツイッターを通して友立ちや家族にメッセージを共有することができる。

「コンサートツアーに協賛して食品の寄付をするのがゴヤフーズの伝統なんです。」同社のPRディレクターのラファエル・トロは語った。「これがわたしたちが地域に還元するやり方で、米国か外国かにこだわらずに助けが必要な人たちを手を差し伸べるという信条に基づいています。世界をよりよい場所にしようと活動するマエストロ・ケアのような団体をサポートし続ける活動ができることを恵まれていると思います。」

この寄付は2011年にゴヤフーズ75周辺を記念して必要とする人に救いの手を差し伸べようというモットーにのっとり始まったGoya Givesキャンペーンの一部。ゴヤフーズはこのキャンペーンが始まって以来400万ポンドを越える食品を世界中に寄付している。

「ゴヤフーズがマエストロ・ケア財団の活動をサポートしてくれることに深く感謝しています。孤児院の美しい子どもたちの顔を見て、子どもたちが愛情を注がれて、しっかりご飯を食べていることはこの上ない気持ちになります。」共同創設者のヘンリー・カルデナスは語った。

ゴヤフーズの詳しい情報や、マエストロ・ケア財団への寄付については各団体ウェブサイトをご覧ください。






コンサートツアーの合間に
ドミニカ共和国の孤児院開設式を訪れていたマーク(2014年4月)。
c) Maestro Cares Foundation

コロンビア・バランキージャの孤児院Hogar de Pasoは2015年2月に完成予定で200人の子どもたちの家になる予定。ちょうどバランキージャでカーニバルが開催されるこの時期、マークも開設式に参加予定。

元記事:Goya Foods Helps Marc Anthony's Charity at Look to the Stars.org  Maestro Cares Foundation Singer Marc Anthony Opens New Orphanage on DominicanToday.com

「マークアンソニーが勝ち取った自信」


米国の男性誌Men's Fitness Magazine 2014年6月号の表紙を飾ったマークアンソニー。


同誌ウェブサイトの記事"Marc Anthony Has Earned His Confidence"より(以下本文訳)

c) Men's Fitness Magazine

世界のポップアイコンになって既に30年近くが経とうとしている。マークアンソニーのもとには、ブルーノ・マーズやピットブルなどの超人気歌手たちがこぞって相談に来るという。マークアンソニーは成功を繰り返しキャリアを持続させるコツ、嫌なやつを黙らせる秘訣を語る。

この記事は2014年6月号のカバーストーリー「マークアンソニーが勝ち取った自信」の予告編です。フルバージョンはMen's Fitness MagazineをiPhoneやiPadにダウンロードするか、お近くの書店にてお求めください。

訳注)2014年6月号の販売はすでに終わっており、Amazon.comで見つけることができます。

歌手としてデビューしヒットを出す前にマークアンソニーが学んだのは戦うことだった。洗練されたグラミー受賞シンガーソングライターは、今でこそトップクラスの歌手に並んで遜色ないが、70年代・80年代をエネルギッシュなイーストハーレムで育ったマルコ・アントニオ・ミュニズ少年は踏みにじられていた。

ニューヨーク最大のラティーノコミュニティはマチョ文化。アンソニーの細い体系は標的になりやすかった。「ラティーノ文化では当時、細い体型というのはどういうわけか弱さの象徴だったんです。」「試されることが多かったんですよ」彼は語った。

アンソニーの父は元アマチュアボディビルダーで、息子に基本的なエクササイズを教え始めた。マークが9歳になった頃には腕立て伏せを3ケタ単位でできるようになっていた。アンソニーは父親のように47キロバンタム級で戦うことはなかったけれど、彼が父親から学んだものは自信だった。「僕の父親は自信家だったよ、だからこそ47キロ級ボディービルダーのコンテストに立ち向かっていったんだね」「だから僕も自信を失うなんてことはこれまでになかったよ。」

26年間にわたるレコーディングキャリアを経て、アンソニーは世界に誇る有名な歌手の一人になった。1200万枚のレコード売上を誇る。1999年の英語ソロアルバムMarc Anthonyはヒットシングル "I Need to Know"や"You Sang to Me"を含みトリプルプラチナを受賞、2000年にはエンリケ・イグレシアスやリッキー・マーティンのようなアーティストとともにラテンポップ人気に拍車をかけた。

2つのグラミー賞と4つのラテングラミーなど彼の輝かしい受賞歴にもかかわらず、人々の関心を集めたのは彼の私生活、特に2004年の旧友だったプエルトリコ系の歌手ジェニファーロペスとの結婚だった。二人の間にはエメちゃんとマックスくん(マキシミリアン)が生まれたが2012年に離婚している。

アンソニーには他にも、元ミスユニバースのダヤナラ・トレスとの間にクリスチャンとライアンという2人の男の子と、ニューヨーク警察官のデビー・ロサドとの初婚でアリアナという娘もいる。

最近ではトップショップのご令嬢クロエ・グリーンとのデートが話題になった。私生活の話になるとアンソニーは口を硬く閉じてしまう。「僕と関係のあった女性たちは人間なんだよ。征服の対象なんかじゃない。」彼は言う。だが異性を惹きつけているのは彼の魅力であり、決して見た目のせいにしていない。